和太鼓という楽器と、八丈太鼓という演奏スタイル、音楽というもの、それをめぐるぼくらのグルーブな日常について できるだけ面白おかしく分かりやすく書いています。 沢山の人に読んでもらうのを過剰に意識してますが、まったく高尚なものではなく、疎にして雑。目くじら立てずに読んで下さい。
 This is personal blog I write about wa-taiko, Japanese drum, style of Hachijo-taiko, music itself and our groovy lives. I write them with humor, amusing way and easy for understanding as much as possible. I am conscious in large in surplus, but it is not so lofty, might be miscellaneous. Please don't flay and do enjoy to read.

2011年1月30日日曜日

出演(一)

鶴見神社「田祭り」にて、遠藤先生と春美先生
太鼓を人前で演奏することは1年をつうじて多いです。地元の鶴見明神太鼓は鶴見神社や地元の行事にはよく駆り出され、まつり系が続く時期は大繁盛します。・・といってもノーギャラです。

体力的にきついのは、鶴見の天王祭です。鶴見神社の氏子町内を神輿が大体いつも12、3箇所の商店や住宅街を巡回します。神輿の先回りをして前触れと、送り出しに6台ぐらいの和太鼓で盛り上げます。太鼓をたたく、太鼓を片づけて車に詰め込み次の場所へ、人をかき分けて太鼓を下す、太鼓をたたく、神輿の担ぎ手が休んでいる間もたたくときはたたく・・の繰り返しを夏の暑い時期に朝から夕方までやります。

緊張するのは赤羽大祭(馬鹿祭り)です。赤羽(東京都北区)二日間の区民祭りのオープニングに駅前駅前の広場で30分ほど八丈太鼓キタマダが演奏します。見物される方々も毎年常連様のようです。曲数もたくさんあります。年を追うごとに見る人も増えているようで、ますます緊張します。でもお客様はとても盛り上がってくれます。

武道始式:下打ち遠藤先生、上打ち鶴見明神太鼓の鈴木さん
僕の住んでいる地域の盆踊りは今時珍しく三日連チャンでニギニギしく「大会」として開催されます。ある年、鶴見明神太鼓が地区の町内会長(長老)の目に留まったとかで、毎年盆踊り大会の最終日に太鼓の枠が準備されています。なんとなく盆踊り大会最終日のメインエベント(?)ビンゴ大会の前触です。

そのほか、隣の町の神社のお祭り(恒例)、祭り好き地区のお祭り(ときどき)、鶴見の市民祭り(開催されれば)、鶴見神社の「田祭り」(恒例)、鶴見神社の「まめまき」(恒例)、鶴見やその周辺地域、北区周辺の敬老会(ほぼ恒例)、消防署や警察の行事(ほぼ恒例)、そして大晦日と元旦は年越しで太鼓をたたきます。(恒例)

おまわりさん、お疲れ様です!
実はつい先週、鶴見警察の「武道始式」という鶴見警察署内の行事にお呼びがかかり、所内の武闘派がみまもるなか八丈太鼓を演奏しました。見ている面々が面々なだけにぐっと引き締まった中で演奏しましたが、意外に緊張はしませんでした。僕はむしろ警察署内のこのような行事をまじかに見れたことにちょっと得した気分でした。(ブログへの掲載はおまわりさんにちゃんと許可をもらいました。)

2011年1月23日日曜日

太鼓の練習(二)

テンションとのり
八丈太鼓キタマダで毎週土曜日の1時~5時の練習に参加してまる5年です。太鼓に関わらず腕を伸ばすには自分より上のレベルの人と共にいなければいけないのは当然ですが、キタマダは僕にとってまさにそういうところです。なにしろ僕以外の全員が僕よりも上なんです、5年間変わらず。まるでスポーツジムのドレッドミル(ランニングマシーン)上を走っている感じです。

木村さん(大先輩)にはよく下打ちを御願いします。
練習の初めはCDによる下打ち(ゆうきち)にあわせて各人が思い思いに太鼓をたたく時間です。実は僕はこの自由打ちの時間に没頭したいと思っています。たまに本当に我を忘れているときがあります。全く周りが見えずただただ自分と太鼓だけがある感じです。だからといって、聞き惚れるような太鼓になっているわけではないです。

皆での練習は遠藤先生作の曲を打ちます。ゆうきち、しゃばたき、かしだての曲を先生やほかの誰かの下打ちに合わせてしっかり打てるようになるのが目的です。全員で揃って打てなければいけないのは当然ながら一人だけでもちゃんと打てないと及第ではないです。一人で打つと、揃い打ちの時に自分がいかに皆の陰に隠れているかが、よくわかります。

先生は曲の楽譜を作って僕らにくれますが、曲を楽譜どおりに打てばいいわけではありません。(まあ僕といえば楽譜通りにも打てないのですが・・)。曲をちゃんとわかり強弱で感情をつけ、撥ふりも美しくきまっていなければなりません。見ている人にノリが伝わる楽しくあるいは激しく踊るような太鼓がいいんだと思うんです。思えば同じ曲の練習を5年もしてますが、練習のたびに新鮮さを感じるのは、僕自身にまだまだ伸びシロがある証拠であると、ぼじてぶ・すぃんきんぐーしてます。

2011年1月22日土曜日

太鼓の練習(一)

キタマダ誘ってくれたジョン・ラビットさんと僕
つづいてるよね~
地元の鶴見明神太鼓に加わって僕は生まれて初めて本格的に太鼓を練習し始めました。
全く同じ日に鶴見明神太鼓に入った女性は八丈太鼓の経験者できれいなフォームで太鼓をたたいていたけどなぜか数か月で明神太鼓を辞めてしまいました。やめないで続けようね~と僕にいってたのに。大人ってわからないなぁ。

そして振り返ったら5年が過ぎています。やめようと思ったことは一度もないです。その理由も考えたことはないですが。
上達する快感と、人前で演じる快感と、一緒に太鼓をしている人たちとのふれあいかなと思います。年がら年中快感だらけではなく、上達についてはマダマダ感がほとんどです。

鶴見明神太鼓に今でも稽古をつけに来てくれている遠藤先生と春美先生が指導している太鼓のグループキタマダに行こうと僕を誘ったのはジョンさんでして、僕が明神太鼓に加わって数か月後。
鶴見明神太鼓で子供たちに交じってのんびりと太鼓をたたいているつもりだった僕には、キタマダはそれはそれは厳しい練習メニューに感じたものでした。それにキタマダのメンバーの方々のレベルは天上のようで、今でも僕はクモの糸をひいこら昇るカンダタです。

キタマダでの楽譜、下打ちCD、録画チェック、徹底的な基礎打ち、揃い打ち、あらゆるフレーズのバリエーションを取り入れた練習曲の繰り返し、といった科学的かつ合理的かつ熱血的かつ天才的な指導は僕には納得がいきます。

2011年1月5日水曜日

嗚呼オンガク(二)

ライフワークのひとつとして
八丈島・火の潟(練習曲)
高校生で音楽を捨てた僕が、今和太鼓にはまっているのは不思議です。
でも考えたら音楽って人生から切り離せないと思っています。
レコード会社のコピーじゃないけど、
No music, no life. って。

和太鼓が上手になったらどんな音楽だってイケるような気がするから不思議です。
もちろん、そんなような気がするだけで、そんなことはないんだけど。

先週1月15日は「八丈太鼓キタマダ」土曜日組の今年初の練習でした。
なんか3週間ぐらい練習しなかったせいで、僕はグダグダでした。
以前と違うのは、だからといって焦ったりしないことです。

Playerは継続していないと だめ。(特に僕のような才能がない人の場合)聴かせる太鼓の場合は、技術よりもノリすべてということもあり続けてないと
余計にテンションが上げにくいんでしょうね。
だから続けていると、いつでもテンションが挙げられてノリもよくなるんではないでしょうか。

僕は和太鼓をライフワークのひとつと思っています。

2011年1月4日火曜日

嗚呼オンガク(一)

音が苦(オンガク)
「音を楽しむのんが音楽やで。けっして音が苦にならんようにね。」
中学校一年生の時のあこがれ美しい音楽の先生はおっしゃいました。
明るく楽しく甘酢っぱい音楽の授業でした。

3年後僕は、すっかり音の苦学生になっていまっていました。

中学2年に転校した先の中学校の恐ろしい音楽の先生に出会ったからでした。豆タンクが眼鏡をかけたようなヒステリックな先生でした。
豆タンク先生は、生徒が忘れ物したり、音楽の本を丸めてふざたり、小テストの点数がよくなかったりした時、罰としては、当人を冷たい床に正座させました。授業の間中です。
これは最悪でした。ひざの強烈な痛さと痺れとで、とてもとても「音を楽しむ」どころではなく、音楽理論はわからなくなり、楽譜もろくに読めずで、すっかり音楽の授業がいやになました。
卒業するまでに僕は何度も正座の刑に処せられましたが、2年間パーフェクトに音楽は通知表で2でした。


豆タンク先生は、文字通り僕の反面教師です。

もちろん正座をさせられたのは僕の落ち度からですが、少なくとも音楽の勉強についていけなくなり、少なからずネガティブなトラウマを持ってしまったことは事実でした。それ故に入った高校は、迷うことなく音楽は捨てました。(「芸術」は選択式でしたから。)

2011年1月3日月曜日

出会い(二)

路傍にて
「やらせてもらえませんか?」に「かまいませんよ」って。

2005年の春のある日、画材を求めるために地元の駅前を歩いていたところ、祭りの人だかりにぶつかりました。車もバスもとおる駅前通りを堰き止めて人を集めているのは法被を着た太鼓の人たちでした。

人だかりのため前にも進めずにながめていましたが、心躍る演奏に、自分もやってみたいな~、だけど祭りや太鼓はジモティーの特権と信じていたのででも駄目だろうな~と思いながら見ていました。

ふと見ると、法被の襟には「太鼓保存会」と染め抜かれています。さらによく見ると太鼓をたたいている人の中にどう見ても外人な感じの顔立ちの人がいます。
ジモティーじゃないよな~。

太鼓の演奏が終わり、その人たちは車に太鼓一式を片付け始めました。
思い切って近づき、体の一番大きな人に、
「僕はここの地元生まれじゃないんですが、参加させてもらえるもんなんでしょうか?」
的なことを言ったら、歓迎の意を示されたので、電話番号と名前を伝えました。

そんな申し出をしたのも忘れ、秋になったころに「鶴見明神太鼓」から電話がありました。

「先生に教えてもらって、八丈太鼓っていうのをしているんです。」
あっ知ってるかも!

底土の海岸の流れ星のたき火のほほえみの少年の踊りのやぐらの・・・

縁があるんですね。

出会い(一)

20代の夏
流れ星が降りしきる夜の浜辺で、踊りのようなしなやかな太鼓に心を奪われてしまいました。

1993年は本州は歴史に残る冷夏で、どこかに夏を探しに行くしかありませんでした。
遠くの島に行けば夏はあるだろう、という何の根拠もない期待でふと思い出したのが、以前会社の先輩の話に聞いた海の透明度の話でした。「八丈のフェリー着き場でも深い海の底がまるっきり見えるんだ」
友を誘い絶海の孤島に7日間いました。八丈には来る日も来る日も海に会いたくなる十分な夏がありました。島での足はもっぱらヒッチハイクでこと足りましたし、手弁当でいろんな海岸を潜り歩きで日に日に僕らは黒い海人になっていきました。

○○座流星群が来ました。

夜空に雲もなくビール片手に底土の海岸に暗い夜道を歩いていくと、遠くから太鼓の音がします。海岸沿いの人もまばらな場所に、一軒だけ夜店が見え、リズムはそこから聞こえてきていました。
首が痛くなるぐらいに夜空を眺め、いくらかの流れ星を数え、ビール缶空になり、夜風に飽きがきて、男二人で海岸にいるのもなんだなと思い始めました。

太鼓の音は続いていました。

宿に帰る前に屋台でなんか買おうか、程度に太鼓の音に近づいていくと、ハーフ顔の少年が半ズボンにランニングシャツで太鼓のリズムに合わせて、武道の型を披露してました。
もっと近づいてと分かったのは、載拳道の「羽風の型」と思ったのが太鼓の演奏そのものでした。
屋台の周りの人々がほぼ笑みで僕らを招じ入れたので、何も買わず床几に腰掛け少年のたたく太鼓を見ていました。
海岸沿いの闇に屋台の周りだけが明るいのと虫よけの一斗缶のたき火が幻想的で、太鼓というよりも美しい踊りを見ているようでした。
宿に帰っても流れ星よりもあの舞のリズムが鮮明に思い浮かんでました。

僕らは東京に帰る前の晩にその地区の盆踊り見物に行きました。
地元の人はもちろん、観光客も交じり、やぐらの前で踊りました。
友につられて僕も初めてマイムマイムを踊りました。手をつないだのは島の女性でした。

ひとしきり踊りの後は太鼓の腕自慢が始まったようでした。この時なって初めて八丈太鼓という伝統芸能があるのを知りました。
みな車座になって太鼓を楽しみ、皆拍手をしました。
「観光客の皆さんでたたきたい人はいませんか~」という呼びかけにドキドキしながら手を挙げて、やぐらに昇りたたかせてもらい拍手もいただきました。

その時はもちろん10年以上も後に自分が八丈太鼓をたたく人になるとは思いもしていませんでした。