和太鼓という楽器と、八丈太鼓という演奏スタイル、音楽というもの、それをめぐるぼくらのグルーブな日常について できるだけ面白おかしく分かりやすく書いています。 沢山の人に読んでもらうのを過剰に意識してますが、まったく高尚なものではなく、疎にして雑。目くじら立てずに読んで下さい。
 This is personal blog I write about wa-taiko, Japanese drum, style of Hachijo-taiko, music itself and our groovy lives. I write them with humor, amusing way and easy for understanding as much as possible. I am conscious in large in surplus, but it is not so lofty, might be miscellaneous. Please don't flay and do enjoy to read.

2013年1月27日日曜日

太鼓のばちについての深い考察(え?)

なかなか手放せないものなんです

太鼓の練習の合間にしみじみと自分のばちをながめることがあります。何を眺めているかというと撥の年季具合というか、使い込み具合というか、ボロボロになり具合というか。。

今はこれぐらいの撥を使い分けています。
撥は、言ってみればただの棒っきれなんですが、太鼓打ちからすると愛すべき道具です。だけど太鼓をたたくのでだいぶ先っちょが痛んでいます。前に巻いたテープピングも剥がれてきています。そして僕は、「修理しなければな~」とぶつくさ考えているわけです。ここで、「捨てて新しいの買わなければな~」と考えないところが僕のいいところでもあり、ケチくさいところです。

さっき書いたように撥は棒きれといっても、道具です。使っているうちに愛着がわき出てきます。たぶんそれを掌に握りしめたりゆるめたり、しているうちに撥と自分の手の間にとしてもしっくりと通じ合うものを感じるからなんじゃないかと思います。

たいていの人は撥の持つ側と太鼓をたたく側を区別していると思いますが、太鼓をたたく側は無論年季が入るとボロボロになっていきます。しかし握る側は信じられないぐらいに手になじんできます。手の汗や脂や垢やなにかでテロテロになり、(きっと新しい時よりも幾分重いのでは?) 自分の手の延長のように使いやすくなってきます。

したがって長年使った撥をそうそう簡単には捨てられない。修理しながら大事に使っていきたいと思う次第です。
「弘法は筆を選ばず」というとおり、そんなことを書いている僕はまだもちろん名人じゃないからなのです。でも名人になれたとしても撥への愛着は変わらないだろうなと思います。