太鼓の練習の合間にしみじみと自分のばちをながめることがあります。何を眺めているかというと撥の年季具合というか、使い込み具合というか、ボロボロになり具合というか。。
今はこれぐらいの撥を使い分けています。 |
さっき書いたように撥は棒きれといっても、道具です。使っているうちに愛着がわき出てきます。たぶんそれを掌に握りしめたりゆるめたり、しているうちに撥と自分の手の間にとしてもしっくりと通じ合うものを感じるからなんじゃないかと思います。
たいていの人は撥の持つ側と太鼓をたたく側を区別していると思いますが、太鼓をたたく側は無論年季が入るとボロボロになっていきます。しかし握る側は信じられないぐらいに手になじんできます。手の汗や脂や垢やなにかでテロテロになり、(きっと新しい時よりも幾分重いのでは?) 自分の手の延長のように使いやすくなってきます。
したがって長年使った撥をそうそう簡単には捨てられない。修理しながら大事に使っていきたいと思う次第です。
「弘法は筆を選ばず」というとおり、そんなことを書いている僕はまだもちろん名人じゃないからなのです。でも名人になれたとしても撥への愛着は変わらないだろうなと思います。
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